| 撮影2025/12/4〜5 |
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続百名城に選定されている新宮城(167番)へ行ってきました。 |
新宮城は隙間のある野面積みと隙間なく積む切込接ぎの石垣が共存している城ですが、切込接ぎには水抜き用の雨樋が必要になるのでしょう。 |
石垣には切り損ねの矢穴も見えました。 |
美しい算木積みも見ることが出来ます。 |
これは一体なんでしょうか。休憩所ならわざわざ一段高く造らないでしょうし、展望台にしては木々が邪魔をして全く展望がありません。 |
なんで城に倉があるのかと思ったら何とトイレでした。トイレなら駐車場に造ればいいと思いますが、すぐ隣は天守跡という城の中核部分にわざわざ造る意図は何なんでしょうか。 |
二の丸に造られた庭園は縁がコンクリート丸出しで芸術性は全くありません。まさか発掘の成果? いくら何でもそれはないか・・・。 |
史跡には似つかわしくない人工物を色々と見せられて嫌気がさしてきましたが、我慢して西の丸から大手道へ向かうことにしました。 |
お目当ては鐘の丸渡櫓門跡正面の鏡石※ですが、思ったほど威圧感はありせん。
※鏡石
来城者に威圧感を与え、城主の権力や財力を誇示するために城の入口の石垣に置かれる石。 |
本丸へと向かう途中、熊野川が見えました。 |
熊野川方面は高い石垣で守られています。
新宮城は浅野忠吉によって1602年から築城開始されますが、1615年の一国一城令により完成の前に廃城となりました。その後、熊野地方の統治・防衛を担うために紀州藩の支城として築城が認められ再開されます。 |
浅野氏は完成を前に三原城へ転封しますが、代わりに入った紀州藩家老の水野氏の代に完成し、水野氏は明治維新まで250年に渡り新宮城を拠点に紀州藩南部を統治しました。 |
本丸渡櫓門正面には当時の最高技術である亀甲積の石垣を見ることが出来ます。 |
本丸へ到着しました。 |
天守台はぶどうの棚になっています。 |
本丸には四つの隅櫓がありました。 |
新宮城は別名「丹鶴城」と言いますが、こちらの隅櫓跡には名前の由来となった丹鶴姫※之碑があります。
※丹鶴姫
丹鶴姫は源平合戦時に熊野で活躍した源氏一族の女性で、源頼朝・義経の叔母にあたります。熊野別当家に嫁ぎ、夫の死後、出家して「鳥居禅尼」と称し、熊野水軍を源氏方につけるなど、源平合戦に大きな影響を与えました。
後世には新宮城の地に伝わる「もののけ姫」としての伝説も残されます。 |
ここにも櫓がありました。 |
こちらの櫓跡は井戸になっています。 |
大手門だけでなく搦手門の石垣も手を抜くことなく、面取り・谷目地に石表面を高く膨らませた当時最高の石化粧法で造られていました。 |
本丸からは熊野川方面の出丸が見えます。
新宮市では望楼型三層五階の天守をはじめ櫓や門を再建したいと考えており、懸賞金1700万円で資料収集を試みたこともありました。現時点ではまだ資料は見つかっていませんが、いつの日か再建できるといいですね。 |
翌日、新宮市の山奥にかかる隠れ滝へ行ってきました。 |
車を停めて歩き始めるとすぐに透過型の砂防堰堤があります。 |
左岸に階段があったので登りました。 |
ところがとんでもない藪です。帰りはこの藪にこりて砂防堰堤の下を通り抜けることにしました。 |
しばらく沢を歩いていると今度はコンクリート製の巨大堰堤が現れ、一瞬、やめようかとの思いがよぎります。 |
ここも左岸を高巻きますが、結構大変でした。 |
高巻いてすぐに沢へと降ります。 |
堰堤には土砂がかなり詰まっていました。 |
しばらく土砂の上を歩きます。 |
だんだん緑が増えてきましたが、まだ水は伏流していました。 |
大きな石に転ばないように慎重に歩きます。 |
歩き始めて50分でようやく滝が見えました。 |