不忍の滝(Shinobazu no taki)
| 愛知県新城市長篠 |
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かつての激戦を想像するのが難しいほど、今は深い静寂に包まれている。 |
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| 撮影2025/2/6 |
長篠の戦いでは5千人の奥平貞昌軍が1.5万人の武田勝頼軍に包囲されながらも持ちこたえていたが、いよいよ兵糧が尽きようという時、鳥居強右衛門が城を抜け出して、岡崎城の信長と家康に状況を伝えた。 岡崎城では信長軍3万人、家康軍8千人がまさに長篠に出陣するところだったので、鳥居強右衛門は朗報を長篠城に伝えようと急いで戻る。ところが、武田軍に捕まってしまった。武田勝頼からは、「城に向かって援軍は来ない。城を明け渡せと叫べ。そうすれば、命を助け、所領も与えよう。」と言われる。 |
この功績により奥平貞昌は信長から一字を貰い信昌と改名、家康からは長女亀姫を正室に貰うとともに天下の名太刀「大般若長光」を下賜され、明治維新まで大名家(中津藩、忍藩)として続いた。鳥居強右衛門の子孫も奥平松平家(忍藩)の家老として厚遇されたという。 |
| 不忍の滝 (シノバズノタキ) | 落差8m | 評価6 | |
滝の映像 |
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織田・徳川の大軍が迫ると知った山県昌景・馬場信春・内藤昌秀ら重臣は撤退を進言したが、勝頼は耳を貸さない。その間、織田・徳川軍は設楽原で三日かけて馬防柵を築き、酒井忠次は鳶ヶ巣山砦を急襲して奥平軍と合流、武田軍の退路を断つことに成功した。退路を失った武田軍は、設楽原の決戦場へ向かうしかなくなるのである。 |
信長・秀吉・家康の三英傑が同じ絵に描かれていることからも、この戦いの重要性がうかがえる。 |
その後、北条氏との同盟破綻、高天神城の落城、家臣団の離反が続き、長篠の戦いから7年後、武田氏は天目山の戦いで滅亡する。 |
| 撮影2008/12/6 |
1575年にこの城を巡って3万8千人の織田・徳川連合軍と1万5千人の武田軍が戦ったことで知られる。 本流の豊川に落ち込む滝が少しづつ後退して出来た滝で、侵食された深い谷は、長篠城西側の天然の堀の役目をしていた。 |
| 不忍の滝 (シノバズノタキ) | 落差8m | 評価6 | |
本丸からは真っ赤に紅葉した木々の奥に滝が見え、実に美しい。 |
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「降り口は危険ですのでこの位置でご覧下さい」とあったが、滝つぼまで降りてみることに。ところが、滝つぼからは紅葉が見えない。あえて危険を冒す必要はなかった。崖を降りる途中、その急峻さに触れる。武田軍がここで苦戦した理由が身にしみて理解できた。 滝の映像 |
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